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あの丘の彼女
先月、彼女と別れた。
世に言う倦怠期に突入し、しばらく惰性な関係を続けたあと、その絆の糸は突然切れてしまった。
しかたない。熱が冷めるのは俺の意志じゃない。俺がどんなに望もうとも、感情まで操れるわけないじゃないか。
それでも彼女が支えになってくれていたこともあったのだろう。部屋は荒れ、食事は味気ないものになってしまった。
それも甘んじて受けよう。俺は召使が欲しいんじゃない。あの惰性な日々に比べれば、少しぐらい不便でも新しい生活も悪くないかもしれない。
俺は無気力な体に鞭打ち大学に通う。先月まではどんなに体調が悪くても気力が萎えることはなかった。それも彼女がいればこそだったようだ。
窓の外は晴れ。俺の気分を投影することもなく、太陽はさんさんと輝いている。それもそうだ。世界は俺一人のものじゃない。俺の気持ちが晴れるまで曇っていたら、世のお母様方は乾燥機の便利さに味をしめることだろう。
友人は遠巻きに見ている。一月も引きずっている俺を嘲笑っているのだろうか。それともビックリ企画でも開催して俺を元気付けてくれるのだろうか。
講義の時間だ。今の俺にはただ退屈な時間だった。今の俺に恋人はいないのだ。恋人のために働くこともないのなら、将来のことなど考えようもない。
俺はここまで彼女に依存していたのか。年月と共に冷めた感情は、失うだけで以前の輝きを取り戻した。だがもう取り返しがつかない。彼女は俺が傍に行くことを拒むだろう。
講義の最中だが外にでた。我ながら陰湿だ。つまらないなら最初から来なければいいのに。
講堂内は広い。俺は中庭に陣取って空を見上げる。相変わらず太陽は輝いていた。
思えば彼女は星のようなものだったのかもしれない。付き合い始める前の夜には輝いていた彼女は、付き合い始めた昼にはその輝きを失う。だが決して光っていないわけではない。俺は幸せの輝きに目を奪われ、彼女自身の輝きを見失っていたのだ。
ため息は息を吐くたびに漏れでるものなのか。この自己嫌悪を何度味わっただろう。快活なわけじゃない。そういえば彼女も俺の性格を気にしていたか。
ベルの音がする。講義は終わったようだ。俺はどれほどここで立ち尽くしていたのだろう。
人のざわつきが聞こえ、空気の流れが変わる。講義室の扉が開いたのだろう。ここもすぐに人が来る。
俺は構内から外にでるとあてもなく歩く。最近はこればかりだ。
人間には矛盾が多い。彼女とは惰性の日々ばかりだったのに、いざ別れとなるとこれだ。男は弱い。彼女は今、気持ちよく眠っているのだろうか。
俺の脚は自然と、ある丘に向かって歩き出す。あてもなく歩いているというのにいつもこれだ。本当はここに来る理由に目をつぶりたいだけなのかもしれない。
肌を撫でる風の掌を感じながら、俺は丘の頂上へとやってきた。草木の匂いが心地よい。俺にとってここは特別だ。
俺は雑草の上に横たわる。空はよく澄み、包み込むように青かった。苦々しい。雲ひとつないではないか。
俺は白を求めて目線を動かす。だが今日は駄目だ。雲はなく真っ青だ。
彼女は流れる雲が好きだった。我ながら女々しいが、気になるのだからしょうがない。
雲が流れる度に、彼女は上を見上げた。最初は雲に嫉妬していた。その感情がなくなったのはいつだったろうか。彼女を理解するのではなく、興味を失っていったのは残念だった。
俺は立ち上がり草を払う。今日も鬱々としている。早めに帰って眠れない夜をすごすのもいい。
俺はもう一度丘を振り返る。変わらない。彼女の愛した丘だ。
また来るよ。
俺の言葉は、天国の彼女に届いているのだろうか。
先月、彼女は亡くなった。
なんということはない。ただの病死だ。もともと体の弱かった彼女は安らかに、眠るようにこの世を去った。
俺は彼女の病床についていた。ただの義務感だ。俺には彼女が死ぬなどと思えなかった。
そして翌日、俺は生まれて初めての葬式に出席することになる。彼女の両親は涙ながらに俺に礼を言っていたが、内容は覚えてはいない。そして彼女の最後の言葉さえも。
襲っってきたのは猛烈な喪失感だった。人を失うことを覚えるのに、彼女の存在は大きすぎた。
そして次に来るものは後悔。倦怠期だなんて彼女は感じていなかっただろう。ただただ俺が興味を失っていただけだ。それが悔しい。彼女は俺に愛されるうちに死んでいったと思っている。人を騙したようだ。そしてそれは最悪の嘘だ。
俺がこれほど虚無感を感じているなら、彼女は許してくれるのだろうか。彼女のことだ。もういいよと笑顔で言ってくれるかもしれない。だが自分自身が許せなかった。彼女はいないのだ。彼女はもう俺を許すことも、なじることもない。俺にどうしろというのだ。
アパートの一室で悶々と考える日々は続いた。いや、考えてはいないのかもしれない。いっこうに進まない思考に意味はないのだから。
気分を変えよう。友人はそう言って海に誘ってくれた。だが俺に気分を変える気はない。俺が彼女を想わないで誰が想うというのだ。
半ば強引に連れ出された俺は、やはり彼女のことを考えていた。
そういえば彼女と海にいくことはなかった。体の弱い彼女は強い紫外線に長時間さらされてはいけない。それに彼女は自分の痩せた体型が嫌いだったようだ。俺はついぞ彼女の水着姿を見ることはなかった。
友人はナンパして、呑みに行こうと誘ってきた。くだらない。一月前から彼女ほどの女性を見たことがない。それに彼女以外と並ぶなどとは考えることさえ有り得なかった。
俺は早々に抜け出し、一人水平線を眺めていた。彼女との思い出がない海は、確かに考えるのに最適かもしれない。だが寂しかった。こんなことが続いていくうちに、彼女のことを忘れてしまうんじゃないだろうか。
空に浮かぶ雲だけが彼女に通じている。あの上に彼女がいる天国があるのだろうか。
青い海が夕暮れ色に染まる。落ちる太陽は俺の心と同じだ。だが俺の心は再び上ることはあるのだろうか。
俺は立ち上がりもとの場所に戻る。友人はもういないだろう。だがそれでいい。帰りは一人で考えたかった。
また来ような。
彼女は今も、俺の傍で笑っているのだろうか。
先日、彼女の四十九日が終わった。
これで彼女は天国に行ったのだろうか。俺を置いて。
彼女に興味を失いかけた俺が、随分と身勝手なことを言っている。だが口からは呪詛のようにその言葉が繰り返される。
彼女の両親が俺を心配していた。塞ぎ込んでいる俺を見かねたのだろう。自分たちも彼女を失ったというのに俺の心配をしている。冷たい人たちだと感じる自分が嫌だった。
やっと俺にも整理がつき始めているのかもしれない。最近よく彼女の夢を見る。彼女と共に歩いた丘の夢だ。幸せそうな笑顔に、俺の心は癒されていった。
今日もまた丘に登る。講義は出席していない。俺には彼女がいる。それだけで充分だった。
雑草に交じり、空を見上げる。流れる雲は白く、彼女も気に入るだろう。写真に撮っておくべきかもしれない。
丘の緑はますます茂り、目に優しく飛び込んでくる。潰れた雑草から香りがたちこめ、鼻を刺激する。風の音が耳を撫で、太陽がぽかぽかと皮膚を暖める。
そのどれもが彼女の声だ。俺に何を伝えたいのだろう。必至になって考えるがわからない。だがそれでいい。わかってしまえば俺は彼女のことをもう考えないかもしれない。
夕日が落ちて夜になった。辺りは街灯もなく、もう真っ暗だ。夜にここに来ることはなかった。彼女は一人で来たことがあるのだろうか。それは悲しいことだ。俺は恋人なのだから、一緒にどこにでも行きたかった。
俺は立ち上がると丘を下る。いつものように振り返ると、そこには彼女がいる気がした。
また明日。
俺の声は、彼女に伝わっているだろうか。
来月、彼女の一周忌だ。
早いものだ。俺はバイトと丘を往復する日々を過ごしていた。
どんなに疲れていても欠かしたことがない。彼女の両親は泣いて止めるが知ったことではない。
今日もバイトの帰りに丘へ寄った。彼女に会いたい一心で。
果たして彼女はそこにいた。
彼女はいつものように笑顔で、俺の肌を撫でてくれる。この全身を吹き抜けるような彼女の手が好きだ。優しい彼女はいつも俺を労ってくれる。
彼女からは草や花のいい匂いがする。俺はこの香りが好きだ。一緒に寝転べば彼女の香りでいっぱいになる。いっそ残り香もアパートに持っていきたいぐらいだ。
彼女の囁きは耳に心地よい。いつもざわざわと耳を刺激し、秋にはリンリンと、夏は機嫌が悪かったのかブンブンと。会話の内容は覚えていないが、取り留めのない話が幸せなのだ。
包み込むような彼女の暖かさは最高だった。昼は彼女から温かさを貰い、夜は俺が彼女を暖める。与え、与えられる関係。まさに恋人の理想だ。
そして二人で空を見上げる。彼女の好きな白い雲はあるだろうか。曇っているときは慰め、晴れているときは一緒に笑う。そんな彼女との日々は大好きだ。
そして日は昇る。夜が明けたようだ。彼女と一緒にいれば一晩中いても楽しい。
今日はずっと一緒にいるよ。
俺は隣の彼女にそう伝えた。
来週、彼女の三周忌だ。
大学は辞め、バイトで食いつなぐ日々。だが俺は充実していた。俺には最愛の彼女がいたから。
俺はいつものように彼女の元へと帰る。だが今日は様子が違っていた。
工事の看板が掲げられ、彼女には近づけなかった。なにかがおかしい。彼女が消えるはずがない。
俺の想いとは裏腹に、掘削機が丘を駆ける。彼女がどんどん痩せ細っていった。
そういえば彼女は痩せすぎの体型を気にしていたのだ。今の自分を見て気持ちが暗くなっているかもしれない。
その証拠に彼女の香りは失われ、声が霞んできた。俺を撫でてくれた手も冷たくなり、俺の寝転ぶ場所がなくなっている。
俺は毎晩のように彼女に会いに行く。大丈夫。痩せても魅力的だよ。僕が愛しているから。
彼女はそれでも元気にならなかった。恋人としては頼ってもらった方が嬉しいのに、彼女は泣き言を言わない。立派なことだが少し寂しかった。
彼女の両親に、彼女が元気のないことを話した。彼女の両親は泣いて悲しんでいた。俺の名前を何度も呼んでいたのは、彼女を元気付けて欲しいからだろう。彼女の両親にまで託されてしまった。頑張らなければならない。
そして今日も彼女に会いに行く。日に日に痩せ細っていく彼女は見ていて痛々しい。だがそれでも俺の愛がさめることはなかった。彼女は俺にとってなくてはならない存在なのだ。
夜が明け、工事関係者に追い出される。俺は何度も止めたが聞き入れられなかった。自分がちっぽけな存在だと改めて理解する。そんな俺を、彼女は何度も撫でてくれた。
諦めないよ。
俺は目の前の彼女にそう誓った。
先月、彼女と別れた。
愛し合っていたのに別れは突然だった。絆の糸は切れ、それでも未練がましく彼女を想うのは俺が弱いからだろうか。
俺は久しぶりに彼女に会いに行く。彼女がいない現実を知るのが怖かった。いまや彼女は完全に痩せ衰え、影も形はなかった。頑丈な鉄柵がはめられ、来月には彼女の上に大きなマンションが建つらしい。
俺は彼女の上に立つ。もう俺を撫でてはくれないし、声も聞かせてはくれない。それでも俺は彼女が好きだった。
別れは徐々に近づいていた。俺には止めることはできなかった。彼女を失った悲しみは、俺の中でどう変化していくのだろう。
彼女の両親は、彼女が消えて安堵していた。冷たい人たちだと思われても仕方ないだろう。俺のことを心配しているといっていたが、彼女を失ったのは自分たちも同じなのに。
俺はすっかり固くなった彼女を撫でる。白い雲は流れているが、俺と彼女の風景ではなくなっていた。何もかもが変わってしまった。
彼女の残り香はもうない。俺は完全に彼女を失ってしまった。
思い出をありがとう。
俺の言葉は、天国の彼女に届いているのだろうか。
今日、俺はまた彼女のもとへとやってきた。
工事は終わり、高層マンションがこれでもかと自己を主張している。そこに彼女の面影はなかった。
俺は階段を上っていく。一段一段、確かめるように。これが彼女の犠牲のうえで成り立っていると思うと気分が悪いが、その想いも確かめるように上っていく。
それにしても高い。既にいつもの彼女の身長は越したのではないだろうか。それでもまだ階数は残っている。これを上るのは一苦労だ。
休み休み上っていくと、通りすがりの人に訝しがられる。だが気にもならない。彼女のおかげで今住む場所があるのだ。彼女へ感謝して欲しいものだ。
そして最上階へと辿り着いた。屋上への扉は鍵がかかっていたので蹴り壊して外に出ることにした。
何度も蹴るがいっこうに開かない。疲れが足に来ている。情けない。こんな姿を彼女に見て欲しくはなかった。
ようやく扉が開くと、やっと彼女の声が聞こえた。頬を撫でる彼女の手に笑顔がこぼれる。
俺は彼女と共に屋上を走り回る。こんなにはしゃいだのはいつ振りだろうか。彼女はからだが弱いのでスポーツはからきし駄目だった。いつもあの丘で一緒に雲を――
あの丘。丘。丘。
彼女は突然消えた。俺の目の前から。どうして。何故。
俺の疑問に答えるものはいない。彼女が消えた。それだけが現実だった。
あぁそうか。簡単だったのだ。今日三度目の彼女の喪失を味わった。俺は頭がよくなかったようだ。彼女に会う方法があるじゃないか。
俺は柵を乗り越える。頭の中は彼女に会うことでいっぱいだった。
彼女に会ったらまずなにを話そうか。寂しかった。辛かった。心配かけたね。いや、そうじゃない。もっと伝えたい言葉があるじゃないか。
ずっと愛してるよ。
俺は彼女に、そう伝えたかったんだ――
fin

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